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劉英 (後漢) : ミニ英和和英辞書
劉英 (後漢)[りゅう えい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りゅう]
 【名詞】 1. axe 2. kill 
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [かん]
 (suf) man (negative nuance)

劉英 (後漢) : ウィキペディア日本語版
劉英 (後漢)[りゅう えい]
劉 英(りゅう えい、? - 71年)は、中国後漢光武帝の三男。母は許美人。明帝の異母兄にあたる。建武17年(41年)に楚王の位を与えられたため、一般には楚王英の呼び名で知られる。
==概要==
65年永平8年)に、劉英が謀反の意志ありとして誣告されるという事件が発生した。それに対する異母弟の明帝の措置は、絹を献上することによる贖罪制度であった。その時の詔に、次のような文言が見られる。
「楚王は、黄老(=黄帝老子)の微言を誦して、浮屠(=仏教)の仁祠を尚ぶ。潔斎すること三月にして、神と誓を為す。何ぞ嫌(うたが)わん、何ぞ疑わん。当に悔吝有るべし。其れ贖を還し以って伊蒲塞(=優婆塞)・桑門(=沙門)の盛饌を助けしめん」(『後漢書』巻42、楚王英伝)。
これは、朝廷としても、黄老の教えと同様に、外来の仏教を信仰することを公認したものである。また、この当時、劉英の封地である彭城でも、西来の外国僧や在家の優婆塞が居たことを示している。そこから推し測ると、都の洛陽や長安には、多くの僧や俗人の信者が宣教に当たっていたことが考えられる。
また、劉英の動向を見ると、黄老と浮屠とを同列に扱い、仏陀を神として祭祀していたことが記されている。このことは、現世利益的な信仰形態であったことを物語っている。
70年冬11月、異母弟の明帝に対して、反乱の計画を立てるが露見され、除国されて、丹陽郡涇県に移された。翌71年夏4月、劉英は自殺した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「劉英 (後漢)」の詳細全文を読む




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